魚住薫は、香山を連れて店に入ることにした。
有名な、老舗のジャズ喫茶である。
昼間は喫茶店として、夜はバーとして営まれている。今はもう、バータイムだ。
地上にある扉を開けると、いささか急な階段を下りる。店員に促され、奥にある二人用のテー
ブル席に落ち着いた。魚住が壁側、香山が通路側だ。
店内は冷房がほどよく効いていた。外の蒸し暑い空気とはもちろん大違いだが、さっきまで
いた居酒屋の、風邪を引かせそうなクーラーとも違う。冷たいカクテルを飲んでも身体が冷え
ない程度の、心地よい冷房だ。
壁にはオーディオが取り付けられ、『アリス・イン・ワンダーランド』が流されている。も
とは同名のディズニー映画のために作曲された曲を、ジャズで弾いたものだ。ただし、魚住は
元の映画のほうを観たことがなかった。ルイス・キャロルの原作を大昔に読みはしたが、それ
もせいぜい日本語訳だ。
すっかり席についてから、香山をここに連れ込んだのは失敗だったかな、と魚住は思った。
常連と言えるほど頻繁に来店するわけではなかったが、お気に入りの店である。よほど気の
合う友人ならば連れ込んでも良かったが、原則としては一人でゆったりと過ごすときに使って
いた。なのに今日は、避難所として、しかも大して親しくない後輩とともに飛び込んだのだ。
うまく言葉にはできないが、自分の無意識のポリシーに反したのだと魚住は理解した。居酒
屋から撤退したまでは良かったが、その後については、やはり冷静さを欠いていたのだ。だが、
入ってしまった以上は仕方ない。せいぜい香山に事情を話し、彼が持っている情報を引き出
し、それらを合わせて善後策を練るしかない。
目標は、一時間以内に香山との話を終わらせる。それから香山を帰宅させ、自分は一次会を
終えた十法会のメンツと合流する。香山から引き出した事実関係を踏まえたうえで、熊谷か福
沢と話す。今夜中にどちらか一方と話せれば上々だ。もう一方とは、後日話しても良い。特に
熊谷の場合、一次会が終わるころには酔いつぶれている可能性もある。
店員がやってきたので、魚住と香山はジントニックを頼んだ。空腹かと香山に訊くと、出る
まえに食べてきたという。用意の良いヤツめと思いながら、魚住は自分用にベーグルを頼んだ。
コンパの席では熊谷の話に付きっきりであったし、そもそも居酒屋の料理なぞ、最後の方に
出てくる御飯物を除いて大したモノは出ないと相場が決まっている。
ジントニックが到着するまでの間、魚住は香山に経緯を説明した。整理して話せば、非常に
簡潔な内容だった。熊谷健太郎が香山に対して、福沢静香への慕情を語った点。その熊谷が、
先週の時点で福沢に振られた点。福沢静香と一年生男子が恋愛関係にあることについて、熊谷
が疑っている点。そこに香山が助勢しているのではないかと疑っている点。香山と熊谷と引き
合わせるわけには行かないほど、熊谷の理性が飛んでいると魚住自身が判断した点。
香山はそれを黙って聴いていた。途中で「それは違う」と遮らないあたり、冷静に話を聴い
ているようだった。
ちょうど話し終えたとき、ジントニックが届く。ベーグルはもうしばらくお時間いただきま
す、と店員に言われる。とりあえず、ふたりで乾杯をし、一口飲んで魚住が言った。
「――― 以上が、今日のコンパで俺が聞いた話。ただ、熊さんの主観が入っているから、事
実はもっと違うのかもしれないと思ってる。それで、香山からも話を聴かせてほしい」
こくりと頷き、香山が口を開いた。
「なるほど。そうでしたか。まず、魚住さんの判断はベストだったと思います。僕のためにも
なりました。ありがとうございます」
そのうえで、と香山は続けた。
「ひとつだけ言えるのは、ぼくは福沢さんと森部くんの仲人をしていません。というより、森
部順一郎という同期と会ったことがありません」
「会ったことがないとは、一瞬も?」
「顔と名前が一致しない、というレベルの話です。名前はメーリングリストで見たことがあり
ます。顔も、もしかしたら新勧コンパで見たかもしれません。ただ、個人としての付き合いは
一度もありません」
香山は努めて淡々と語った。
そういえば、と魚住は気づいた。たしかに、香山がふたりを取り持ったという情報のソース
を、熊谷は口にしなかった。訊いておけば良かったが、仕方ない。これは後で確認しなくては
いけない。
「おれも森部はよく知らないけれど、顔なら分かるよ。背は高くて、一八〇センチくらい。な
んか中国拳法をやってるとかで、ひょろっとしているけど鍛えられている感じ。くっきりして
いて、沖縄人とかハーフみたいな目鼻立ち」
魚住は自分の知っている森部順一郎の特徴を列挙していったが、香山は困ったふうで「わか
りません」と答えた。
「そうか。じゃあ別の質問、いいかな。熊さんが福沢に振られたことについて、今のところサー
クル内のメンバーはあまり知らないみたいなんだ。君も、今聞くまで知らなかった?」
「はい、今聞きました。熊谷さんはなにも言ってこなかったし」
ダウト。
確証はない。だが、ウソをついた可能性がある。魚住は思った。
なにせ香山は、遅かれ早かれ熊谷が告白することを本人から聞かされていたのだ。とすれば、
実際に告白がなされたことについてまだ知らなかった場合、いま初めて魚住から経緯を聞い
た香山は「ああ、熊谷さん告白してたんですね」という趣旨の感想を、いちばん最初に述べる
だろうと魚住は踏んでいた。
反対に、もし香山がすでに熊谷の失恋についての情報を別ルートで掴んでいた場合、今の質
問には「知っていました」と答えるのが筋である。
乱暴なロジックだ。ウソだと決め付けるのは早すぎるだろう。だが、これを足がかりに切り
崩せるかもしれない。
そう魚住が思ったところで、机上に置いていたGショックケータイが震えだした。
着信だ。幹事を任せた同期、市川真帆からである。
香山にことわってから、電話を取る。
「はい。魚住です」
「薫くん、いまどこにいるの?!」
受話器の向こうの市川はひどくパニックしているようだった。後ろの方からは、なにやら怒
声が聞こえてくる。
「ごめん。詳しく説明できないけど、まだ新宿ですよ。どうした?」
「すぐに戻ってきて。熊さんが倒れた!! 救急車呼んだ」
「倒れた?!」
混乱しながらも、市川は状況を説明してきた。どうやらあのあと、熊谷は酒を飲み続けたら
しい。わざと自分への飲酒コールを誘発し、さんざん飲んでから昏倒したそうだ。周囲のメン
バーは、意識が戻らず嘔吐を繰り返すようになった熊谷を見て初めて異常性に気づき、救急車
を呼んだのだという。
「もう救急車は来たの?」
「いま呼んだところ。たぶんすぐ来る。ねえ早く戻ってきて。私、幹事の交代はしたけど、と
てもまとめきれない」
「分かった。おれも戻るよ。でも、待って。そっちには福沢とか樋口さんとかいるでしょ。頼
りになりそうなヤツが・・・」
「あの人たちなら、みんな出てっちゃったよ!!」
ただでさえパニックしていた市川が、ついに切れて叫んだ。
「出ていった?」
「とにかくいないんだってば! 私ひとりで酔っ払ったバカども四十人もまとめらんないから
! お願い早く戻ってきて。あっ、いま救急車来たみたい!」
受話器を通じて、遠くにサイレン音が混じってきた。
「分かった。五分で行く」
魚住はそう言って電話を切った。目の前にはきょとんとした香山明敏。そしてまだ少ししか
飲んでいない、ふたつのジントニック。
「香山、事情が変わった。お金はおれが払うから、とりあえず店出ろ。今日はお開きだから」
「なんでですか? なにがあったんですか? 救急車って、まさか」
「質問禁止。今日は道草せずに家に帰ってくれ。熊谷のせいで呼び出されたり、おれにこうし
て連れ回されたりしたあげく、このまま帰れっていうのは非常に申し訳ないんだが。とにかく」
「わかりました」
魚住はおっ取り刀で会計を済ませ、香山を連れて店から出た。
時刻は二十時三十五分。三十分前は、まだコンパ会場にいたことが信じられない。たった三
十分でこんなにてんやわんやしていることで、魚住は頭痛を起こしそうだった。
香山に直帰しろと念を押し、魚住は新宿区役所前の信号機まで走った。歩行者用の青ランプ
が明滅している信号を全速力で渡りきり、雑居ビルまで戻る。
ビル前には、救急車が一台止まっていた。ちょうど要救助者が運び出され、車両に箱詰めさ
れるところだった。熊のバカヤロウが。
救急車に一緒に乗り込もうとしているのは、二年の細田榛名だった。珍しいモノが好きな彼
女だから、救急車に乗るのもやぶさかではなかったのかもしれない。
「薫くん!」
そしてエレベーターから市川が出てきた。顔は青ざめて、二の腕から先は、なぜかベチャベ
チャに汚れている。魚住の思考は一瞬フリーズしたが、そのベチャベチャがおそらく熊谷の吐
しゃ物だと思い至った。倒れた彼が嘔吐で気道を詰まらせないよう、体勢を変えさせたりした
のだろう。
「状況は?」
「みんなまだ上にいる。でもアイツらみんな酔っ払ってて、だれも信用して任せられない。と
りあえずお店側にフキンとか借りて、現場の処理だけした。あとはお金払って、みんなを外に
出さないといけないんだけど。もう、私自身パニックしてて、自分でも正常な判断下してるの
か分かんない!」
「分かった。上の指揮はおれが執る。まずみんなを店から出すよ。十分くらいはかかると思う」
「私はどうしたらいい?」
「その袖、綺麗にしてきた方が良い。熊さんはとりあえず、細田と救急車がなんとかしてくれ
るだろ。いちばん急を要する問題はもう無くなったんだから、君は手を洗ってきな。となりが
カラオケショップだから、そこでトイレを借りれば良い。その代わり、十五分後に此処、ビル
の前に集合ね」
「分かった」
市川は通りに出て、カラオケショップへ向かって行った。
魚住は、市川に申し訳なく思った。幹事を押し付けて抜け出したからだ。彼女の怒りを買う
かもしれないが、今日のうちにちゃんと謝罪をしておこうと決心する。
さて、四階ではどんな修羅場が待ち構えているのか。また上って行ってしまったエレベーター
を呼び戻す時間ももったいない。意を決して、魚住は階段を駆け上がった。